晶子は、十二人の子持ち
2004年10月26日 ねこの居場所、ひとの居場所金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり岡の夕日に
やは肌のあつき血潮にふれも見でさびしからずや道を説く君
与謝野晶子
さきほど与謝野晶子を中心に描いた映画「華の乱」の
ビデオを鑑賞した。
主演は吉永小百合。 大正文壇、芸術思想に進出の女性の模様を伝えている。
集中、晶子が疲れた様子で10余人の小さなこどもを面倒見ている。 当時、詩誌「明星」を発行し貧窮していたので内職に託児所でも開いたのかと思って見ていたが、なんと晶子は夫、与謝野鉄幹との間に十二人の子を成していたのである。
最初の子を24歳で産み、以後15年間のあいだに十二人の子を産んだ。
29歳のときは双生児が産まれ、一女が死産、39歳のときの子は二日後に死去している。
情熱を詠んだ歌人も実は出産に疲れ果てていたのである。
結婚した鉄幹は坊主の息子であり、それも貧乏寺の出で食事は一汁一菜である。
新婚の晶子が汁とお菜と魚の煮付けを出すと、鉄幹は「こんな贅沢は
許さない」と言い、晶子はあっけにとられた。尾頭付きの煮魚を出せ
ば、「魚は三枚に下ろして片身ずつ食べるものだ」と怒られた。
鉄幹は貧乏であり、かつケチであった。
雑誌「明星」の経費も前夫人の滝野の実家から出ていた。彼は幼少のこ
ろ口減らしとして他の寺に養子に出され辛酸を舐めている。
しかし鉄幹は美男子で才気もあり、千人の恋人を持って当然と言う自負があった。
そんな女扱いにはプロのような鉄幹にロマンチックな文学少女晶子が
すっかり嵌まり込んでしまったのである。
晶子の実家は大阪は堺市の老舗羊羹の「駿河屋」である。
宮内庁の御用達をも賜る家柄であった。
乳母や女中とともに車夫が引く馬車で大阪の町へ行ったり、松茸狩りをしたり、旨いものを食べ、住吉大社の夏祭りを楽しんだりした。
そんな晶子が生活に悩まなかったのか、男に見切りを付けてさっさと
離縁しなかったのか、、、。
結婚の翌年、長男光が誕生した。自宅には石川啄木が来て居候する。
晶子は見る見るうちに「明星」歌壇の寵児になってゆく。
二十三歳で晶子の筆力は師の鉄幹を超えている。
啄木をも寄宿させる与謝野家の家計は人気歌人の晶子によって支えられていた。
鉄幹は、「金の卵を産む妻」を手中にしたわけだ。
※参考文献 嵐山光三郎「文人悪食」
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